5分で分かる文禄・慶長の役(唐入り)と倭城

「秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮ではなく明国を征服するための戦いだった!」
「韓国には、築城名手の加藤清正や藤堂高虎が築いた城跡が今も残っている!」

教科書では触れられなかった唐入り(文禄・慶長の役)と倭城について簡単にまとめました。詳しく知りたい方は、専門書をお読みください。


〜開戦前夜〜

関東の北条氏政・氏直父子を滅ぼし、天下統一を果たした豊臣秀吉の次のターゲットは明国。秀吉は、明国の属国であった朝鮮に対し、日本への服属と明攻めの先導をすることを求めます。しかし、期日になっても朝鮮からの連絡が来なかったため、まずは朝鮮を攻めることになりました。
肥前名護屋城
肥前名護屋城

〜文禄の役〜

文禄元年(1592)、日本の軍勢は朝鮮半島へ渡りました。加藤清正、福島正則、小西行長、石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家、黒田長政、細川忠興、島津義弘、立花宗茂、長宗我部元親、小早川隆景、上杉景勝、伊達政宗といった名だたる武将たちです。
開戦当初の日本軍の快進撃は凄まじく、釜山浦(現在のプサン)上陸からわずか20日で朝鮮の都・漢城(現在のソウル)を占拠。その後、平安道(現在の北朝鮮西部)を担当をした小西行長は平壌(現在のピョンヤン)まで、咸鏡道(現在の北朝鮮東部)を担当した加藤清正は、兀良哈(現在の北朝鮮・中国・ロシア国境付近)まで攻めていきました。連戦連勝続きの日本軍でしたが、明からの援軍到来、李舜臣率いる朝鮮水軍の奇襲、義兵の蜂起により、戦局は傾いていきます。
その後、一進一退の攻防を繰り広げましたが、ついに明との講和交渉を始めます。その一方で、朝鮮半島南部の支配、日本本土との補給連絡線の確保、李舜臣率いる朝鮮水軍の奇襲に備え、朝鮮半島南岸に多くの城を築きました。
加藤清正が築いた西生浦城から日本海を眺める
加藤清正が築いた西生浦城から日本海を眺める

〜慶長の役〜

慶長二年(1597)、日本と明との間で行われていた講和交渉は決裂。再び戦が行われます。この時、日本軍は新たに数ヶ所で城を築き、朝鮮半島南部を着実に支配していきました。ところが、秀吉の突然の死によって全軍の撤退が決定。結局、明征服どころか、朝鮮を手に入れることも叶わぬまま終戦を迎えました。
壮絶な籠城戦が行われた蔚山城
壮絶な籠城戦が行われた蔚山城

〜歴史のターニングポイント〜

この戦の結果、豊臣政権内に大きな亀裂が生まれました。この亀裂がやがて関ヶ原の戦いへ、そして関ヶ原の戦いが大坂の陣へと繋がっていくのです。
石田三成と加藤清正
石田三成と加藤清正

〜韓国に残る日本の城

文禄・慶長の役の際、日本軍が朝鮮半島南岸に築いた城を倭城(わじょう)といいます。現在、約30の倭城の存在が確認されています。このサイトでは、現存する全ての倭城を写真と縄張図付きで紹介しています。



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西生浦城
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